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大正・昭和時代の岸和田 その2(1~3月岸和田再発見コーナー)

印刷用ページを表示する 2012年2月1日掲載

再発見コーナー

(その2 戦時下の岸和田)

連続テレビ小説『カーネーション』の人気は上々、視聴率も高いようです。物語の舞台は戦争の時代へ。その中でも小原糸子さんはたくましく生き抜いています。

しかし、「戦争を知らずにぼくらは生まれた~」と、声高らかに歌っていた団塊の世代も還暦を過ぎ、平成生まれの子も次々と成人に…。最近は「日本がアメリカと戦争をしたことさえ知らない若者」もいるそうです。

そこで、今回の「岸和田再発見」は前回の続編。引き続き女性の動向を中心に、戦時体制の中の岸和田の姿を探ります。

国防婦人会の活動の様子

昭和の「戦争の歴史」を再学習してみませんか

若者だけでなく、還暦を過ぎた世代でも「学校の授業では現代史はほとんど勉強しなかったなあ」と言う人が多いようです。図書館には「昭和時代」関連の本がたくさん並んでいます。講座形式の日本史のシリーズものから「戦前・戦中」を扱った一冊を読むのもいいでしょう。

「とりあえず戦争の経過だけでも知りたい」という人には、『もう一度読む山川日本史』(山川出版)、『図解雑学日本の歴史』(前澤桃子著 ナツメ社)、『高校日本史の基本と流れ』(松井秀行著、秀和システム)、『早わかり日本史』(河合敦著 日本実業出版社)などの本もあります。また『日本女性の歴史』(総合女性史研究会編 角川書店)、『日本女性史』(吉川弘文館)なども参考になるでしょう。これを機会に、もう一度勉強し直してみませんか。

出征する夫の「後顧の憂い」を断つため、新妻が自殺

平成元年に岸和田市が発行した『岸和田の戦時下の行政と市民』(山岡家文書刊行・保存会)には、戦時下の行政と市民に関係する史料(昭和8年~20年)や詳細な年表も掲載され、大変参考になります。

同書の「解説」の中では、現代の若い女性からは「しんじられナーイ」という言葉が飛び出しそうなエピソードが紹介されていました。

「それは1931年12月に起こった岸和田高等女学校出身井上千代子の自殺事件である。満州事変に際して出征することになった夫、井上清一中尉(岸和田市出身)の「後顧の憂い」を断つために自殺した彼女は、前年3月に岸和田高女を卒業したばかり、結婚後1年少しの新妻であった。この事件は、発表されるや社会に大きな衝撃を与え、軍国美談として大々的に宣伝された。…岸和田高女でおこなわれた慰霊祭において、生徒総代は『夫人の死は我が国民覚醒の警鐘であり、その鐘の音に国民の血は、いやがうえにも湧き立ちました』と述べ、又同窓会代表は『かかる方を出したということは、実に我が同窓2千5百有余人の誇り』であると讃えた。」

当時の新聞を調べてみました

図書館には昭和3年以降の新聞の縮刷版もあります。昭和6年12月14日付の「大阪朝日新聞」を調べると、2面にデカデカと「渡満の井上中尉夫人 紋服姿で端然自刃す」の見出しで千代子夫人の写真入りの記事が載っていました。

また、「悲壮な心を抱いて出発した雄々しい井上中尉」の見出しで「連隊では渡満に差支えない範囲において同中尉の心情をくみ一時出発を延期させ後事を整理させようとしたが、同中尉はこれを断乎としてことわり『私事のため国事を躊躇すべきでない、また自分の出発を延期することは自害した妻の意志にも反する』ときかず、連隊でもその雄々しい決心を了とし、決然出発させること」にしたという記事や、夫宛・実父母宛・井上家宛の3つの遺書、「褒めてやってくれ」「悔みや悲しみは妻の死には不向きだ。萬歳祝ってくれ」という井上中尉の談、「頭が下がる、出征美談だ」という連隊長談なども掲載されています。

翌年にはこれを題材とした映画「ああ井上中尉夫人」(日活)、「死の餞別」(新興キネマ)が製作され、4つの映画会社が陸軍当局の許可を得て競って上映しました。岸和田高女の講堂には、額装された千代子夫人の写真が敗戦の日まで飾られていたそうです。

この事件の顛末やその後の経過については、昭和55年(1980)に発行された『昭和史のおんな』(澤地久枝著 文芸春秋)の中の「井上中尉夫人『死の餞別』」の項で紹介されています。

井上清一は昭和10年(1935)に再婚。「死んだ家内は、自分の妻であって妻でない。その名誉を傷つけることはできない」としばしば語っていたこと、夫人が自害した現場では「妻の死体を叩きながら、『なんとバカなことを―、ここまでせんでもええやないか』と沈痛な表情で口走っていた」ことなど、50年近い歳月を経て語られる関係者の言葉に、改めて「戦争とは…」を考えさせられます。

当時の新聞の画像

「国防婦人会」誕生のきっかけに…

この事件は、国防婦人会の誕生のきっかけにもなったのです。国防婦人会設立の発起人である安田せい(山直下村出身)は、井上夫妻の間をとりもった人物で、この「美談」に感激して女性が国に尽す組織を作ることを決意します。

『岸和田市史第4巻』(以下『市史』)には、「大阪の市岡婦人会で活躍していた三谷英子を誘い、大阪築港から中国に出征する兵士らに湯茶の接待をし、募金活動を行った。この様子は新聞で大きく報道され、市岡警察署、大阪憲兵隊の後援を受け、割烹(かっぽう)着とタスキ姿で出征者を援護する活動が注目された。これが大阪国防婦人会の実質のスタートだった」と書かれています。この活動を陸軍が全面的に後援し、昭和7年(1932)10月には「日本の戦時体制を支える女性の有力な組織」となる大日本国防婦人会(以下「国婦」)に発展していくのです。

「愛国婦人会」と競合しながら急速にふくれ上がる「国防婦人会」

「国婦」が誕生する以前から、愛国婦人会(以下「愛婦」)という軍事援護を行う全国組織がありましたが、会費は高額で上流階級の婦人層などを中心に組織されていました。これに対して「国婦」の会費は少額であり、割烹着という実用的スタイルで軍事援助の奉仕活動に参加。従来社会活動などに無縁だった女性を、地域や職場ごとに分会として組織し、10年後には1,000万人の組織にまで広がります。その経過や日中戦争下の銃後体制を支える要となった要因などについては、『国防婦人会』(藤井忠俊著 岩波書店)が詳しく分析・紹介しています。

一方、満州事変が勃発した頃、日本最大の婦人組織だった「愛婦」は、新たな局面の中で本来的な事業で主導的役割を果たせなくなったことに危機感を抱き、「国婦」に対抗して大衆化を図り組織改革も行い、会員拡大を進めます。以後「愛婦、国婦競争時代」に入ります。

しかし「国婦」の優位は動かしがたく、「国婦は愛婦と対抗しながら大衆層に根をはっていった。愛婦は国婦と対抗するために、一つにはますます国婦と同じにならなければならなかった」(『国防婦人会』)と指摘されるように、他の多くの婦人団体も「国婦」化していきます。

岸和田の国防婦人会と愛国婦人会(参照文献『岸和田市史』)

岸和田市は、比較的「愛婦」の組織率が高い地域で、既に上流階級の婦人だけの組織から脱皮しつつありましたが、各種婦人会や在郷軍人会などが集められ、「国婦」設立に向けて動き出します。

国婦岸和田支部設立の準備をしていた昭和8年(1933)5月、従来の愛婦などとは全く無関係だった岸和田紡績春木工場で女性労働者1,330人が「国婦」の分会発会式を挙行しました。これが他団体をも刺激し、同年6月18日に国婦岸和田支部が3,000人を集めて発会します。支部発足後、各小学校区に分会が作られ工場分会も広がりました。

国婦岸和田支部は、廃品回収をして国防資金にあて、在郷軍人会と共催で防空展を開催。防空訓練では炊き出しを担当するなど、台所からそのまま駆けつけるイメージで多くの女性を組織し、昭和10年(1935)には9,202人になっています。

これに対して「愛婦」は、「国婦」との競争の中で銃後活動一辺倒になっていきますが、南掃守村浄福寺に農繁期託児所を開設、出征兵士家族支援のためのミシン裁縫講習会や結婚相談所を開くなど、「国婦」とは違う面の独自活動を行い、昭和15年(1940)の会員は岸和田市で2,167人、春木町で63人、山直町で199人に増えています。また「国婦」の校区分会責任者のほとんどは「愛婦」の会員であり、重複参加していた場合が多かったようです。それらの内容については、『市民がつづった女性史 きしわだの女たち』(岸和田市立女性センター、きしわだの女性史編纂委員会編著 ドメス出版)、『戦時下のきしわだの女たち』(きしわだの女性史の会編)にも詳しく書かれています。

婦人参政権をめざす運動はどうなったの?

大正デモクラシーの中で広がった女性の権利向上の運動はどうなったのでしょうか。大正14年(1925)に普通選挙法が成立・公布されて以降、「普選の次は婦選」と政友会も民政党も女性参政権に前向きな姿勢を示し始めます。昭和6年(1931)には制限つきの「婦人公民権案」(市町村の選挙・被選挙権に限定し国政や道府県は認めない、妻の名誉職就任に夫の同意が必要等)が衆議院を通過、貴族院で否決されます。この頃には「婦人参政権付与は必然の流れ」のように思われていました。

しかし、その年の9月、満州事変が勃発し流れが変わります。婦選獲得同盟は「非常時なればこそ一層婦人の政治参加が必要だ」と訴えますが、翌7年には、海軍青年将校らが首相官邸などを襲い、犬養首相を射殺する事件(5・15事件)が起ります。デモクラシーの象徴でもあった「政党内閣」の時代が終わり、婦人参政権実現への道はさらに遠のきました。

それでも婦選同盟は、昭和8年、9年の大会では「膨大な軍事費反対」の決議を行うなど、軍事国家に反対していましたが、その後は選挙粛正運動や消費者運動に方向転換し、結果的には国の指導の系列下に組み込まれていきます。それらの経過については、『市川房江自伝・戦前編』(新宿書房)に詳しく描かれています。

岸和田でも昭和8年(1933)に、日本基督教婦人矯風会の支部が結成され、山岡春を通して廃娼運動にも取り組みますが、戦時体制強化とともに独自活動は困難になります。

なぜ「国防婦人会」が社会現象のように広がったのか

『国防婦人会』の著者、藤井忠俊氏は「私は『国防婦人会現象』あるいは『カッポウ着現象』と呼んでみる」とし、陸軍の強力な支援があったとはいえ、なぜこれまで大きく広がったのか。その要因について詳細な調査・分析を行っています。その指摘の一部を見ると……。

  • 既成の婦人会をみると、奉仕活動よりも会合や見学がほとんど、そこへの出席は、いうなれば社交のようなものなのだ。だから、会に出席するためには何かと服装に気をつかわねばならない。しかし、カッポウ着ならだれも同じ、どんな着物の上にでも着けて出られた。(上流婦人たちへの反発)
  • 大阪国防婦人会結成の時、安田せい達は「国の守りに台所から奮い起て」と叫んだ。結成後最初の活動として大阪防空献金運動に参加したとき、新聞は「台所から街頭へ」と書いた。…会員はみな台所からそのままの姿で出て、港や駅へ行き、兵士を見送ったのである。(台所から街頭へ)
  • 国防婦人会に参加した婦人たちは、ある意味では「家」から解放されて、いそいそと見送りに、会合に出かけて行けたのだった。…ことに庶民層では、婦人が見送りに行く姿には一種の解放感すらうかがわれた。(無思想性)……等々

市川房江さんも「国防婦人会については言うべきことが多々あるが、かつて自分の時間というものを持ったことがない農村の大衆婦人が、半日家から解放されて講演を聞くことだけでも、これは婦人解放である。…その意味で喜んでよいかもしれないと思った」と『自伝』で書いています。何となく「わかるなあ」という気がしませんか。

全ての婦人組織が統合され「大日本婦人会」が発会(参照文献『国防婦人会』)

「満州事変」の頃は、まだ日本軍側の犠牲者は多くありませんでした。「幸か不幸か、戦死・戦傷者をかかえながら、決定的に戦争を厭うことなく、戦争を日常化し、社会的に適応していける条件と容量があった」時期です。彼女らは、兵士の見送り(ときに出迎え)に際して、あるいは出征家族、戦死者遺家族に対して奉仕するために集まりました。まだこの時期、出征軍人の家族は奉仕される側です。

軍部にとっては、「夫が戦場に立ち生死の巷に奮戦して居る時に、留守宅にいる妻が勝手な真似をしていては大勇猛心が出ない」という危惧もあります。そのため、「貞操」やそれを保証する「婦徳」が強調されます。「国婦」も内的向上を重視し、活動内容も廃品回収など「街頭から台所」へ変容します。

また、戦局が深まるにつれて、女性にも労力奉仕が求められるようになり、カッポウ着はモンペ姿に変わっていきます。

さらに、「国家総動員」の時代になると、政治的には大政翼賛会、社会的には町内会の体制が確立されます。国家の一機関となった町内会・隣組は、廃品回収や防空演習だけでなく、生活必需品の配給業務まで行うようになりました。ただし男性の多くは出征しており、主要な実行部隊は婦人です。各婦人団体の独自活動は薄れ、隣組の活動の中に完全に組み込まれました。

それに伴って婦人組織の統合が求められ、昭和17年(1942)には大日本婦人会が発足。岸和田市の「愛婦」、「国婦」、連合婦人会、岸和田婦人会も解散しました。山岡春も「1944年には、大日本婦人会岸和田支部長となり、戦時体制の中に組み込まれていった」(『岸和田地域婦人運動と山岡春』)ようです。

15年戦争と岸和田の地車まつり

岸和田のだんじり祭も戦争の中で大きく揺れ動きます。その様子は『戦時下の社会』(横山篤夫著 (有)岩田書院)の「15年戦争と岸和田の地車祭」の項で描かれています。

昭和7年(1932)9月15日は、日本政府が満州国との間で日満議定書に調印し、同国を「国家」として承認した日です。当時の新聞には「岸和田市在郷軍人聯合分会では当日が地車祭なので承認発表の情報が入ると同時に27台の地車を昭和大通岸和田駅付近に集め井坂市長の発声で万歳を三唱し終って各地車に日の丸国旗と満州国旗を左右につけて全市を練る…」と、満州国の建国に喜ぶ市民の姿が報じられています。

その後は、「1937年の日中全面戦争の開戦とともに、地車祭に費やされる岸和田の人々のエネルギーと費用は、準戦時体制をつくり上げていく上では邪魔な存在と見なされ」るようになり、以後「5年間その公式の執行は許されなかった」そうです。

しかし、その時期でも「各町ごとに様子を見ながら1日のうち何時間かは地車を曳き出し、警察の前を通る時は鳴り物を中止して掛け声なども控えて走り抜けた」こと。昭和17年には、だんじり関係者の再三再四の要請によって岸和田警察署長を動かし、とうとう大阪府警察本部から「署長に一任する」との回答を得て「6年ぶりに岸和田にお許しだ」と大喜びしたというエピソードも紹介されています。

新しい岸和田市が誕生、最初の選挙は「翼賛選挙」(参照文献『市史』)

戦争機運が高まり、政治や行政も一切を国防力、戦力の充実に向けるようになると、国も自治体の合理化、能率化を図り、行政負担能力を向上させようとし、岸和田市も積極的に近隣町村と合併する方針を打ち出します。

昭和13年(1938)3月には土生郷村が、15年(1940)6月には泉南郡の有真香村と東葛城村の両村が岸和田市に編入されました。さらに、太平洋戦争(昭和16年~20年)が始まった翌年(1942)、岸和田市・春木町(旧北掃守村・八木村)・山直町(旧山直上村・山直下村)・南掃守村の1市2町1村が解消され、対等合併の形で4月1日に新しい岸和田市が発足します。

岸和田市などの4市町村は3月31日に廃されたので、今までの首長も議員も自動的に解職となり、新しい岸和田市の市会議員が選出されて市長が決定するまでの間、大阪府地方事務官の幸前が市長職務管掌を務め、6月4日の市会議員選挙を迎えましたが、それはいわゆる翼賛選挙でした。

大政翼賛会と翼賛選挙(参照文献『市史』)

日中全面戦争開始直後の昭和12年(1937)9月から国民精神総動員運動が始まり、昭和15年(1940)10月には大政翼賛会が結成。社会大衆党や政友会、民政党などの政党も解党しています。

国は、昭和17年(1942)には翼賛政治体制協議会を設置し、政府の施策に忠実に協力する候補者を推薦しその当選を図ります。同年4月の衆議院総選挙で協議会は466人を推薦し、投票の結果、推薦候補381人、非推薦候補85人が当選しました。

岸和田の市会議員選挙では、翼賛選挙協議会が定員36人に対し36人を推薦(非推薦の候補者は13人)し、当選したのは推薦33人、非推薦3人でした。また、市会では寺田甚吉氏(寺田甚与茂氏の長子)を名誉職市長に満場一致で選びました。

軍需産業優先で、繊維産業は息も絶え絶えに(参照文献『市史』)

『市史』では、「航空機へ急旋回 泉州織物も解散へ」という見出しで「大阪府では各種産業部門戦士の配置転換に全力をそそぎ……ここに泉州織物の名で全国に知られた泉州の織物工業は全面的に航空機に切り換えられ……」などの新聞記事(昭和18年12月)を紹介し、「贅沢は敵」という掛け声のもと、軍需産業を優先し、織物などの「平和」産業が次々と切り捨てられていく状況が紹介されています。

昭和11年(1936)の2・26事件、翌年の「盧溝橋事件」により日中全面戦争に突入し、軍備拡大を見込んだ輸入が爆発的に増大します。一方、繊維産業は原料の綿花などの大幅な輸入抑制などで次第に後退を余儀なくされていくのです。

昭和15年(1940)、国防国家体制の完成に向けて「新経済体制確立要綱」が閣議決定され、企業は国家目的に従うことが求められます。軍需産業が優先され、繊維産業は次第に抑制されました。昭和12年(1937)には岸和田市の工業生産額の90.5%を占めていた繊維産業ですが、昭和17年(1942)には64.9%に比重を低下。その後もさらに落ち込み、「息も絶え絶えの状態で敗戦」を迎えました。

一方、航空機の部品や兵器の部品などの生産は、軍事上の必要から生産量を割り当てられ、大幅に伸びます。しかし、大阪市や堺市などの大軍需工場の下請けであったため、それらの地域が空襲を受けるようになると岸和田市の工業生産は大幅に低下し始めます。結局、金属、機械器具工業の大半は岸和田市には根づかなかったようです。

他方で、紡績業、織物業などは生き残った会社が土台になって、終戦後「岸和田市は再び繊維産業を中心とした都市として復興」するようになります。

金融統制のための銀行合同で、岸和田市に本店を置く銀行は消滅(参照文献『市史』)

戦争が長期化する中で戦時金融統制も強められます。

繊維産業等への生産・消費抑制政策により、繊維産業からの資金需要は激減。銀行資金の大半は、国公債・社債・株式などの有価証券へ流れました。

金融統制のための銀行合同は国策として強力に推進され、明治11年以来の伝統を誇った五十一銀行をはじめ岸和田市に本店を置く岸和田銀行、寺田銀行、和泉銀行と、貝塚町に本店を置いた貝塚銀行を加えた五行が合併し、昭和15年(1940)3月に株式会社阪南銀行になります。昭和17年(1942)の3月から6月にかけて泉州地域の全銀行は阪南銀行に合併させられました。

そして、昭和20年(1945)7月には、その阪南銀行も池田実業銀行とともに住友銀行に合併され、岸和田市に本店を置く銀行はなくなりました。

冷房車はぜいたく、行楽は銃後の国民には不向き(参照文献『市史』)

鉄道も戦時体制の中で、企業合併強要など統制が強まります。阪和電鉄の快速列車黒潮号、南海電鉄の黒潮列車は日中戦争が始まり戦時体制が強まる中で、昭和12年(1937)12月1日をもって廃止されます。翌年には評判だった南海鉄道の冷房車も「贅沢だ」として姿を消し、14年には鉄道省が「行楽は銃後の国民には不向き」との方針を出すと、両鉄道会社の駅等から、行楽ポスターが一斉に取りはらわれました。

昭和15年(1940)には阪和電鉄が南海鉄道に吸収合併されて解散、南海鉄道山手線と改称され、阪和岸和田駅は東岸和田駅と改名されます。さらに、昭和19年(1944)には南海山手線は国有化され、国鉄阪和線になり、南海鉄道と関西急行鉄道株式会社の合併で近畿日本鉄道株式会社が発足します。

なお、この戦時体制のための強引な鉄道統制の企業合併は、戦後間もなく解消され、昭和22年(1947)に南海鉄道は分離独立し、南海電気鉄道として新たに出発しました。

農家の労働力が不足しても、食糧増産は至上課題に(参照文献『市史』)

中国との全面戦争に突入すると、岸和田市からも青壮年男子が軍隊に召集され、農家の基幹労働力は不足し始めます。また、戦争遂行の物資優先で肥料が不足し、農薬や農器具などの諸資材も市場から次第に姿を消していきます。それでも食糧生産は、戦時統制経済のもとで至上課題とされます。

昭和14年(1939)には、西日本と朝鮮で大かんばつがあり、朝鮮からの輸入米も激減。一挙に米不足になりました。同年、国は米穀配給統制法で米の自由売買を禁止。農家には、耕地面積を単位にした米穀の供出が割り当てられます。

昭和12年から20年にかけての8年間は、岸和田市の農業、農家の激動の時期であり、昭和20年に入ると岸和田市の農家の中でさえ、供出のための米櫃(こめびつ)が底をつく状況でした。

そのような状況の中で、「聖戦に活躍する名誉の家に苦労はかけない」と、地域や学校から組織的に非農家の人々が勤労奉仕を行います。それらは「美談」として新聞で大々的に報じられ、やがて国策の「勤労動員」として強制的に推し進められるようになります。

学徒勤労動員~奉仕活動から強制動員へ

旧制岸和田中学校(以下「岸中」)における勤労動員の実態は、『岸和田高等学校の第一世紀』(校史編纂委員会編)や『戦時下の社会』に詳しく書かれています。

岸中では、昭和9年(1934)から作業教育という農業体験教育が学校を挙げて進められていました。戦局が深まると、その作業教育が時局に適応した先駆的教育として高く評価されるようになります。

昭和13年(1938)になると、文部省は学徒勤労動員の方針を示します。その翌年、岸中では兵士に召集された農家で全生徒が終日奉仕作業を実施しました。新聞はそれをエリートの中学生が時局に沿って奉仕した美談として報道。次第にそれが恒久化し、他の中学でも同様の勤労奉仕が始められると、次には府から割り当てられるようになります。

文部省はさらに「学校報国団」の結成を指示。これがやがて軍需産業などへの勤労動員の母体になります。その後、授業よりも勤労動員が優先、通年化されてガランとした授業のない岸中に変貌(校舎の半分は軍隊が駐屯)していく経過や、過酷な勤労動員の作業状況、さらに労働災害での死傷者など、『戦時下の社会』は克明な調査で学徒勤労動員の実態を鋭く告発しています。

鍋・釜だけでなく、座蒲団までも供出の対象になりました

戦局が悪化する中で、鍋や釜まで供出させられたことを知っている方もいるでしょう。『岸和田の戦時下の行政と市民』には、古釘やブリキ缶、古銅鍋、古弁当箱などの献納を訴えた「1戸1品廃物献納運動実施要綱」(昭和13年)や、「鉄と銅に動員令が下りました。鉄や銅は一国生産力の根幹であり、戦争資源の中枢です。一刻でも早く国力を充実させる為に、一貫目でも多く速やかに国家に集めませう」と書いた「金属類特別回収依頼」の文書(昭和16年)が掲載されています。

それだけではありません。昭和19年(1944)には座蒲団も供出の対象となります。「家庭の綿を火薬に捧げましょう」と訴えた隣組回覧板には「大追撃戦によって、醜敵米英の息の根を止めるには、飛行機を爆弾を完全に補給せねばならないことは皆様とくとご承知の通りです。この爆弾の火薬原料として、純綿が急速にしかも大量に必要なのでありますが、昨今綿花が非常に不足してきましたので、家庭の綿の回収を強力に行はねばならぬことになりました。この軍の要求に応ずるため、本府に於いては今回全国一斉に実施される綿特別回収に呼応し、左記により家庭から座布団綿の供出をお願いすることになりました」と書いています。

そして、「私どもが日頃愛用して来ました座蒲団綿が、爆弾に、砲弾に、或は魚雷になって、敵撃滅に直接お役に立つと考へただけでも、心のわきたつ思ひがするではありませんか」と訴えていますが、皆さんはどういう思いがしますか。

だんじりも焼いた岸和田の空襲

岸和田の空襲のさまざまな事実の発掘や体験談は横山篤夫著の「地車も焼いた岸和田の空襲」(『戦争と平和』3号所収)に詳しく書かれています。

それらによると、岸和田市域への最初の空襲は昭和20年2月4日、続いて3月17日、6月26日、7月10日、8月8日と、少なくとも5回以上(海浜や岸和田市沖合での空襲を除く)行われ、12人が死亡(内2人は徴用された朝鮮人)しています。

7月10日未明の空襲の時には中之浜町の明治30年製作の地車も焼失したようです。

確かに、大阪市や堺市のように焼野が原になるような大空襲は受けていません。しかし、著者も指摘する通り、死者や負傷者、家屋が焼失・破壊された人々にとっては大空襲も小空襲も同じことです。決して「岸和田の空襲はたいしたことがなかった」と忘れ去ることはできません。

また、昭和20年5月以降、B29は大阪湾にも大量の機雷を投下。海には不発弾も残り、戦争で荒れた漁場が平和な海に戻るには多くの時間を要しました。「地元での聞き取りによると、戦後に岸和田で2隻、春木で1隻の漁船が魚網にかかった爆弾の破裂で被災し、死傷者が出た」(『市史』)そうです。

戦没者が急増し、新たな墓地を建設(参照文献『市史』)

戦争が長期化し戦域が拡大する中で、膨大な数の人々が戦場に動員されました。太平洋戦争の開始からは戦没者も急増します。

司令部の指示に従って召集令状(赤紙)を市民に届ける徴兵事務は、市役所兵事課の職員が担当。そこには台帳があり、岸和田市民の兵役従事者はすべて記載されていました。しかし、戦後すぐ処分されたため、正確な数はわからなくなっています。

『市史』では「戦没者公報の控の集計から、岸和田市出身兵員の所属した主な戦場を挙げることはできる」として、その資料をもとに、岸和田市民の戦没者(2,263名)を推計しています。

また、「戦没者の急増は、毎月市葬を行うほどの状況で…昭和19年4月墓地拡張の許可申請を大阪府知事に提出」しました。当時は軍事関係以外の新規工事はほとんど認められなかったため、「軍人名誉墓地の設定及び忠霊塔建設と一括して多年の懸案を解決…」と理由を掲げて許可を得たこと。それが「今日の流木墓地公園のスタートであった」ことも紹介しています。

図書館も戦争に協力、その反省から生まれた「自由に関する宣言」(参照文献『市史』)

図書館も、戦時体制の中で「国民総動員」に積極的に協力してきた苦い歴史があります。

岸和田市が市制実施を申請したときは公立の図書館はなく、民間の文庫をそれに充てて申請したようです。その文庫は津田栄氏が明治36年(1903)に開設した「津田文庫」です。巡回文庫も行い、昭和18年(1943)には蔵書数17,000冊以上になりましたが、戦時体制下には強制供出をさせられました。

市立図書館が開館したのは昭和3年(1928)。泉南地方で唯一の公立図書館であり、周辺部からの利用者も多かったのですが、日中戦争が長期化し言論統制が強まると、図書館にもその波が及びます。

国が発売禁止した本は図書館でも廃棄処分にされ、警察からは閲覧を禁止すべき図書の一覧が示され回覧されました。また、岸中からは「好ましからざる本を借り出したる生徒を監視したいから」と、月々の貸出図書・貸出者名とを記入報告することを求められたそうです。

全国の図書館でも言論統制、戦意高揚に協力させられました。それらの実態については『戦争と図書館』(清水正三編 白石書店)に紹介されています。

それらの反省から大討論を重ね、昭和29年(1954)の第7回全国図書館大会において、下記の「図書館の自由に関する宣言」が採択されました。それは、現在でも図書館界の共通の財産になっています。

図書館の自由に関する宣言

基本的人権の一つとして「知る自由」をもつ民衆に、資料と施設を提供することは、図書館のもっとも重要な任務である。図書館のこのような任務を果たすため、我々図書館人は次のことを確認し、実践する。

  1. 図書館は資料収集の自由を有する。
  2. 図書館は資料提供の自由を有する。
  3. 図書館はすべての不当な検閲に反対する。

図書館の自由が侵されるとき、我々は団結してあくまで自由を守る。

戦争から見えてきた女の強さ

最後に、コシノジュンコさんの『人生、これからや』(PHP研究所)から一節を紹介します。

「戦争って、ほんとうに酷いものだと思います。亡くなった人ばかりでなく、残された人たちの人生をも変えてしまいます。一家の大黒柱を亡くして、残された女性と子どもたちは生きていかなくてはなりません。心から無残なことだと思います。

ただひとつ、戦争から見えてきたものがあります。それは女の強さというもの。夫を戦争で奪われても、とにかく子どもを食べさせていかなくてはなりません。家の中に閉じこもってシクシク泣いて暮らすわけにはいかない。悲しみは横に置いておいて、明日からは仕事で稼がなくてならない。食べるために女性たちは必死でした。

そんな女性の生活力と生命力によって、もしかしたらいまの日本があるのかもしれませんね。とくにうちのお母ちゃんの場合には、戦争体験によってさらにパワーアップしたような気がします。」