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大正・昭和時代の岸和田

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2011年10月29日掲載

 

(その1 大正~昭和初期)

 今年は、平塚らいてうが「元始、女性は太陽であった」と宣言した『青鞜』(せいとう)が発刊されて100年目。各地で『青鞜』発刊100周年を記念する催しが展開されています。

 また、連続テレビ小説「カーネーション」のモデルとなる小篠綾子さんは、その2年後の大正2年に生まれ、大正・昭和の時代を生き抜いてこられました。

 そこで、『岸和田再発見コ-ナー』は、「大正・昭和時代の岸和田」をテーマに、当時の女性が置かれていた状況や女性運動に焦点を当て、関連図書を紹介しながら皆さんの「岸和田再発見」のお手伝いをしたいと考えています。

 今回は、「大正~昭和初期」を中心に探っていきます。

青鞜表紙 「青鞜」創刊号の表紙。長沼(高村)智恵子の図案です。

「元始、女性は太陽であった」―今年は『青鞜』発刊100周年

 明治44年(1911)、日本初の女性雑誌『青鞜』の発刊に際して、平塚らいてうは「元始、女性は太陽であった。真性の人であった」と高らかに宣言しました。そして、今の女性は「他によって生き、他の光によって輝く月」であり、「かくされたわが太陽を、いま、とりもどさなければならない」と力強く述べました。

 らいてうは本名平塚明(はる)、明治19年(1886)生まれで石川啄木と同年です。その巻頭詩は、与謝野晶子が「山の動く日来る かく云えども人われを信ぜじ」と送り、表紙絵は、後の高村光太郎夫人(長沼智恵子)が描きました。

 その前年に幸徳秋水らへの弾圧(大逆事件)があったばかりで、 社会主義運動が「冬の時代」を迎え、啄木が「時代閉塞の現状をいかにせむ 秋に入りてことに斯く思うかな」と嘆いていた頃です。

 『大正時代-現代を読みとく大正の事件簿』(永沢道雄著 光人社)は、「そんな折りであるだけに、物おじしない品のいいお嬢さん集団のはつらつとした”ことあげ”は、よけい明るく新鮮な印象を与えた。封建的家族制度と政治的後進性の幾重もの網にからめとられてきた女性は、明治の文明開化からすこしずつものを思い、声をあげはじめる。ここにきて『青鞜』は、はっきり女性の自我の確立、ひいては家族制度への容赦ない批判に踏み切る」と評しています。

 『青鞜』は、何回か発禁処分を受けます。しかし、女だけで自由奔放に家族制度や性問題、女性の権利、女性解放を叫ぶ彼女たちの存在は、ジャーナリズムから「新しい女」とからかわれながらも、それが流行語になるなど、世の女性たちの注目を集めます。

 今年は『青鞜』発刊100周年。図書館にも『青鞜の時代-平塚らいてうと新しい女たち』(堀場清子著 岩波書店)、『平塚らいてう-愛と反逆の青春』(小林登美枝著 大月書店)、『平塚らいてうーわたしの歩いた道』(日本図書センター)、『平塚らいてう-女性が輝く時代を拓く』(日野多香子作 草土文化)、『陽の輝き-平塚らいてう・その戦後』(小林登美枝著 新日本出版社)、『虹を架けた女たち-平塚らいてうと市川房江』(山本藤枝著 集英社)などの本があります。

なぜ、男の人だけが好き勝手にできるんや

「男性が何もかも決めて、女性がそれについていくというのが当時の一般家庭の姿ではなかったでしょうか。…でも私だけは素直にうなずけない子でした。『なぜ男の人だけが好き勝手にできるんや』…私は大変なお転婆で、大阪でいう『やんちゃくれ』というやつで、まるで男の子のような女の子でした…」(『やんちゃくれ』小篠綾子著 講談社)

 小篠綾子さんの著書でも、女性の権利が奪われていた当時の様子が描かれています。綾子さんが生まれた頃は、女性には参政権がなく、政治演説会に行くことさえ禁じられた時代でした。女性が職業を持って自立して生きていくには、現代では想像できない困難があったことでしょう。

 図書館では、上記の本以外にも『糸とはさみと大阪と』(文園社)、『ファッション好きやねん』(たる出版)、『アヤコのだんじり人生』(たる出版)など、小篠綾子さんの著書を揃えていますので、どれか一冊でも読んでみてください。

新島襄による最初の女性解放の叫びは岸和田で…

 岸和田に於ける女性運動はどうだったのでしょうか。少し時代を遡って探ってみましょう。

 同志社の創立者として有名な新島襄は、明治11年(1875)に岸和田を訪れ、泉州の地に初めてのプロテスタント伝道を始めました。その様子は『新島襄と山岡家の人々』(岸和田市立郷土資料館)に詳しく紹介されています。

 同書の中で、萩原俊彦氏は、「新島は男子の集会のみでなく、女子を対象とした伝道を重視した。日本の女性を奴隷状態から解放し、高い教養をもつ女性が育成されれば、男性以上に働き、社会は浄化されるであろうと主張する。…新島襄による最初の女性解放の叫びは、ここ岸和田でなされたのであった」と書いています。

最後の岸和田藩主・岡部長職が新島襄に依頼

 新島襄に「岸和田に来て伝道してほしい」と依頼したのは、最後の岸和田藩主・岡部長職(ながもと)です。岡部長職は明治元年(1868)に15歳で藩主になりますが、明治2年の版籍奉還で藩知事に、同4年の廃藩置県で東京移住を命じられて岸和田を去り、その4年後に米国に留学しマサチューセッツ州スプリングフィールドに滞在。その地で異文化に触れ基督教信仰を深めることになります。新島襄はその2年前に同地のアンドーバー神学校を卒業しています。

 そして、長職は明治11年(1878)5月、新島襄に「岸和田の人々に基督教を伝道してほしい。そのために、岸和田の山岡尹方(ただかた)という人に連絡してほしい」という手紙を書きます。この書簡を読んだ新島は同年7月に岸和田を訪問し伝道を開始したのです。そのいきさつについては、『評伝 岡部長職』(小川原正道著 慶應義塾大学出版会)にも紹介されています。

山岡尹方は「岸煉」を創設、同志社女学校に「岸煉」製の煉瓦を使用

 山岡家は岸和田藩の上級藩士家。尹方は1840年生まれ、山岡家の家督を相続し、廃藩置県後も岸和田県大参事などを歴任する一方、旧士族による結社「時習社」を結成しています。この「時習社」が、やがて新島襄や同志社学生らの伝道活動を支援する中心的組織となるのです。

 また、尹方は明治7年(1874)に煉瓦製造を開始(失敗に終わる)、同11年(1878)には国立五十一銀行創立委員になるなど、近代産業育成にも活躍しました。そのような折、新島襄と出会い、やがて基督教に傾倒していきます。明治20年(1887)には、寺田甚与茂(じんよも)らによって設立された岸和田煉瓦株式会社(以下「岸煉」)の初代社長に就任。その社章は十字架で、全ての製品に十字架の刻印が押され、同志社女学校静和館(大正元年竣工)には、「岸煉」製の煉瓦が使用されています。

2013年のNHK大河ドラマは、新島襄の妻、新島八重が主人公

 NHKは、東日本大震災関連のプロジェクトの一環として、2013年の大河ドラマの主人公を福島県出身の新島八重に決定しました。八重は、兵学をもって会津藩に仕えた家に生まれ、戊辰戦争では自ら銃を取って戦い、「幕末のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれたそうです。

 維新後は京都に移って教育に従事し、襄と結婚。もちろん、岸和田への伝道活動にも参加。泉南高等女学校(後の和泉高校)でも講演しています。新島襄の死後も新島八重や同志社関係者と山岡家の交流は長く続けられました。『新島襄と山岡家の人々』には、大正6年(1917)に八重から山岡邦三郎に宛てた手紙も掲載されています。大河ドラマで「岸和田への伝道の場面も取り上げてくれたらいいのになあ」と思いますね。(同書は図書館でも1,000円で販売しています)

山岡春と岸和田の女性運動~「母心」で家庭や社会の改善に努力

山岡春写真 山岡春『岸和田地域婦人運動と山岡春』(岸和田市)より

 大正時代に入って、岸和田の女性運動の歴史に大きな足跡を残したのは、山岡尹方の長男である邦三郎と結婚した山岡春(1866~1964)です。

 春は、筑後柳川藩士北住福松・重の次女として生まれました。父は幼いうちに亡くなり、母は大阪に出て針仕事で生計を立てつつキリスト教に接近。春を創立間もない梅花女学校(現、梅花学園)に入学させます。春は明治18年(1885)に全科第1回卒業生になり、同20年、デフォレスト牧師夫妻について仙台へ。その地で、牧師として来ていた山岡邦三郎と出会い結婚します。

 その前年には岸和田でも米騒動が起きています。社会動向への関心も高まってきたのでしょうか。「母の会」は、「自分よりも弱者の位置にある婦人の境遇に同情し、その向上進歩に努め、その幸福を図る」趣旨で、会員の家庭で働いている「女中」などを対象に修養会(講話や慰安運動会)を開いています。

 大正8年(1919)には大阪朝日新聞社が関西以西の婦人団体を中之島中央公会堂に集め「婦人会関西連合大会」を開催。山岡春はその発起人会の座長を務めました。

 「母の会」は、その後大正10年(1921)に泉南愛国婦人修養会と合併して泉南婦徳会になり、大正11年(1922)11月の岸和田市制施行に伴って、再度、愛国婦人会と分離し、大正12年1月に「岸和田婦人会」になります。

廃娼運動と山岡春

 日本では昭和32年(1957)まで売買春が認められていたことを知っていますか。廃娼運動は、基督教婦人矯風会(以下、矯風会)や廓清会などを中心に取り組まれ、大阪では、廃業しようとする女性をかくまったり、職業紹介をする「婦人ホーム」を運営していた矯風会の林歌子を中心に活発に行われました。大正5年(1916)には飛田遊郭設置許可反対運動を展開しますが、敗北します。

 山岡春は矯風会大阪支部の会員として運動に参加しています。また、大正12年(1923)、関東大震災で東京の遊郭地「吉原」が焼け、多くの女性が閉じ込められたまま焼死する痛ましい事件があった時、矯風会はいち早く再興反対の声をあげ、春は国会への請願運動や地元選出代議士への訪問活動にも積極的に取り組みます。この運動は92名の代議士の賛同を得て上程されますが、時間切れで閉会。目的を達することはできませんでした。

 その後、政府が廃娼方針を打ち出した時期もありましたが、戦局の悪化の中、軍隊の増強に合わせて遊郭地の認可は増加していったようです。戦後も多くの女性団体によって売買春をなくそうと運動が展開されますが容易ではなく、ようやく昭和32年(1957)になって売春防止法が施行されます。

社会的視野を広げながら活動した岸和田婦人会

 『市民がつづった女性史 きしわだの女たち』(岸和田市立女性センター、きしわだの女性史編纂委員会編著 ドメス出版) は、明治・大正・昭和の岸和田の女性の状況や動きが様々な角度から描かれた貴重な好著。「岸和田婦人会は1926年5月、女子夜学校を発足させた。週1回月曜日、学科は生け花・裁縫・編み物・国語・珠算の5科目、講師は会員で行うことにした。…会場は公会堂会議室を利用した。維持費は幹事が毎月50銭醸出し、女中や労働者は無料にした」など、同書でも山岡春らの岸和田婦人会の活動が詳しく紹介され、「地域に根ざしたさまざまな活動を展開してきた岸和田の女性たちは、多くの団体が参加した関西婦人連合会や基督教婦人矯風会につながることで、社会的視野を広げ、課題を捉え実行する力を身につけてきた」様子がよくわかります。

同書には、佐藤満寿(山岡尹方の4女)が、岸和田城の南の一角で鳩巣園(きゅうそうえん)という幼稚園を開き、優れた教育実践を行っていたことや、義姉の山岡春と共に岸和田婦人会に参加し、女子夜学校でも教師の一人として活躍してきたことなども紹介されています。

紡績・織物業が発展~岡部時代から寺田時代へ

「大阪はご承知のように、「糸偏」で栄えた土地です。…紡績工場、家内工業の機屋、呉服商……さまざまな糸偏産業があり、国内はもとより海外との取引も盛んでした。わたしはそんな織り屋どころの真っただ中で生まれ、そだったのです」(『糸とはさみと大阪と』)

 岸和田は綿紡績・綿織物業を中心に発展しますが、その中で、寺田甚与茂・元吉・利吉らの寺田家一族が極めて大きな役割を果たします。高林半二氏(元市会議員)は、「その時代(市制施行時)は、寺田財閥の勃興時代で、寺田さんのご勢力の議員さんが多かった。…何というても岡部時代から寺田時代を迎えたというわけです」(『岸和田市制50周年記念誌』)と語っています。

 寺田財閥については、『岸和田市史第4巻』(以下、『市史』)に詳しく書かれています。

 寺田甚与茂(1852~1931)は、明治11年(1878)に第五十一国立銀行に支配人として参画。同25年(1894)に岸和田紡績株式会社を設立し取締役社長に、同30年(1897)には寺田家の機関銀行となる和泉貯金銀行を創設し頭取に就任しています。これら企業群には弟の元吉(1855~1920)も参画し、寺田家直系の事業として成長させました。また、異父弟となる寺田利吉(1857~1918)もこれら企業の役員に就任します。

 『市史』では、「寺田一族の企業活動は甚与茂を中心に展開…資産の絶対額でも甚与茂系が早くから大規模であった。…ほとんど寺田系諸家が関わった銀行・会社が岸和田地方で圧倒的な大きさを誇っていた」と書いています。

 甚与茂・元吉は、連携して寺田家の事業を支えますが、元吉の長子元之助が日露戦争後から企業活動を始め、佐野紡績所を発足させるなど少し異なった分野での活動も目立ってきます。利吉系では、2代目利吉が甚与茂との意見の相違から岸和田紡績を退き、寺田紡績工廠を創業。寺田銀行も設立するなど、独立して企業経営するケースも見られたようです。

 寺田家の活躍の様子は、『昭和に輝く』(原静村著 南海新聞社)、『元朝 寺田元吉』(中澤米太郎著 寺田元吉翁銅像建設委員会)、『寺田甚與茂翁小伝』(岸和田紡績株式会社社友会)、『元睦寺田翁』(熊澤安定著 市立商業学校編)、『茅淳の海から』(林幸司編集・文責)などでも知ることができます。

隆盛を誇った岸和田紡績、政府の国防強化策の中で大日本紡績に合併

「見本を抱えて、岸和田の春木橋界隈に今も残る、いくつかの紡績工場に通いました。こうして21歳の私は、初めて自分の足で歩き始めたのです。…仕事は順調でした。最初は紡績工場の診療所の看護婦さんたちに始まって、新しいお客さんも少しずつ増えていきます…」(『糸とはさみと大阪と』)

 綾子さんが、ようやく一人立ちできるようになり、近隣の紡績会社にも注文を取りに出かけるようになった頃、岸和田紡績は最盛期を迎えます。

 岸和田紡績は創業以来常に「高率配当」を維持し続けるとともに、比較的豊富な資金力を背景に、現金取引で綿の買入れを値切り、先物売りもほとんど行わない会社でした。創業者の寺田甚与茂は昭和6年(1931)に亡くなりますが、同年12月に寺田甚吉が社長に就任して以来、岸和田紡績の機械設備の更新、社内機構の刷新、堺工場の廃止・売却と新体制を進め、昭和9年には大阪市内に営業所を開設し、社長以下本店幹部全員をここに移します。この移転を契機に寺田甚吉社長は南海電鉄株式会社の社長も兼ねるなど、関西財界に進出する基盤を作り、さらに中国の天津にも工場を建設し昭和15年に操業を開始しています。(『市史』)

 しかし、政府の国防国家体制強化による企業統合政策の中で、岸和田紡績は昭和16年(1941)に大日本紡績株式会社(日紡、後のユニチカ)に吸収合併されることになります。その機会に編纂された『岸和田紡績株式会社50年史』には、創業時から合併に至るまでの経過が記されています。

次々に争議が発生、朝鮮人女性を多く雇用した岸和田紡績

 このような紡績・織布業の発展・隆盛の影には、「女工」と呼ばれた多くの人々の苦難の歴史があったことも事実です。

 日本の紡績工場における女性労働者について、『市史』では「人間無視の長時間労働(紡績では昼夜2交代制、12時間労働が標準)、不衛生な寄宿舎、粗悪な食事、肉体消耗的労働、前借制雇用による借金奴隷的性格、残虐な制裁、口入れ業者などの甘言による女性労働者争奪競争、結核を始めとする重病の蔓延、発狂・自殺と、この世の生き地獄であった」と書かれています。

 とりわけ、岸和田紡績は朝鮮人女性を多く雇っていたことで知られています。「かつて岸和田紡績で働いていた朝鮮の婦人たちを訪ね歩き、聞き書きを採り、それをつき合わせ、岸和田紡績の朝鮮人女工の状況を明らかに」した『朝鮮人女工のうた』(金賛汀著 岩波書店)には、数々の悲惨な状況や彼女たちが争議に立ち上がった様子が描かれています。

 同書では、日本政府が明治43年(1910)に「韓国併合」を行って日本の領土とし、朝鮮総督府をおいて植民地支配を始めたこと、第1次世界大戦期の好景気・労働力不足の頃から紡績工場に働く朝鮮人女工の雇用が急増したこと、社外の「募集人」に委託することも多く、「なかには紡績会社の労務係と結託し、女工の賃金の前借りや旅費のごまかしで女工に借金をつくらせ、その金を持逃げするような者…はては会社に連れていく途中で好色の慰みものにし、その後女郎屋に売りとばすという悪質な募集人もいた」ことなども書かれています。

 岸和田紡績は大正7年(1918)から朝鮮に出向き、本格的・計画的に朝鮮人女性を募集。その後、朝鮮人の雇用を増加させます。この動きは泉州の近隣企業でも広がり、岸和田を中心とする泉州一帯は在住朝鮮人女性が多い地域になりました。

 そして、岸和田が市となる直前の大正11年(1922)7月、民族差別待遇に反対する岸和田紡績春木分工場の朝鮮人女性労働者のストライキが発生し、8月には本社工場の日本人労働者が待遇改善を要求してストライキを決行しました。この争議は労働者側の惨敗で終りますが、その後も労使対立は激しくなります。

 翌年の11月から12月にかけて、寺田紡績工廠、和泉紡績会社、岸和田紡績で争議が同時発生します。この闘いも労働者側の敗北で終りますが、昭和に入っても次々に争議が発生しました。

 先述の「女子夜学校」には春木の紡績工場で働く女性も通っていましたが、交代勤務の中では困難だったようです。

 なお、争議の内容の詳細は、松下松次氏が『資料 岸和田紡績の争議』(発行 ユニウス)としてまとめています。

城下町の町並みに近代建築物が溶け込む岸和田のまち

 『市史』には、「市政が実施された大正11年には岸和田市には第五十一銀行をはじめ、本店を置く銀行が6行、支店を開設した銀行は2行を数えた。さらに明治44年(1911)には、岸和田市を南北に貫通した南海鉄道が難波―和歌山間の全線電化を完成していた。こうしたなかで、紡績工場、煉瓦工場、銀行、鉄道の駅舎や学校、官衙(かんが)で近代洋風建築を採用する場合が多くなった」と書かれています。

 また、成協信用組合岸和田支店(魚屋町、旧四十三銀行岸和田支店)、近畿大阪銀行岸和田支店(宮本町、旧交野無尽)、キシレン本社ビル(並松町、旧岸和田煉瓦綿業)、市立中央小学校(堺町)など、多くの近代洋風建築物も残されています。

 五風荘(南木荘)は、江戸時代の新御茶屋跡に寺田利吉(寺田紡績社長)が10年もの歳月を費やし完成させた近代数寄屋風の伝統的和風建築です。そのような近代建築物がまだかなり保存活用され、城下町としての歴史的街並の中で、「その景観にうまく溶け込み快いアクセント」(『市史』)を与えていることが岸和田市の大きな特色ではないでしょうか。岸和田美術の会が2007年に発行した『景観ルネサンス』の作品集を見ると、そのことがさらに実感されるでしょう。

関西初の普選による選挙として注目を集めた岸和田市議会選挙

 「大正」は、岸和田にとっても重要な節目となる時代です。明治45年(1912)に岸和田町・岸和田浜町・岸和田村・沼野村の2町2村が合併し、岸和田町が発足。大正11年(1922)11月には岸和田市になります。そして、来年は市制施行90周年を迎えます。

 全国的に重要な政治課題であった普通選挙法は大正14年(1925)に成立・公布されます。これにより納税要件は撤廃され25歳以上の男子に選挙権が与えられますが、女性は除外されました。

 大正9年(1920)にらいてうや市川房江を中心に結成した「新婦人協会」などが婦人参政権獲得運動を展開していましたが、それが実現したのは終戦(1945年)後になってからです。

 昭和2年(1927)に執行された岸和田市議員選挙は、関西で最初の普選による選挙として大きな注目を集めました。「全有権者向けの宣伝ビラ配布、講演会開催…投票当日、大部分の工場が休業して労働者の便宜を図った。…これら幾多の努力が実って、棄権率がわずか7.3パーセントという好成績」(『市史』)でした。

 また、在日朝鮮人男性が選挙権を行使したことも注目されました。

「何でもあった」大正時代

 「大正デモクラシー」は、政治的には憲政擁護運動や普通選挙法の実現を求める運動を軸に展開され、吉野作造は「民本主義」を掲げ、美濃部達吉は「天皇機関説」を論じます。

 紹介した女性運動以外でも、文学の世界では、明治43年に武者小路実篤や志賀直哉を中心に、雑誌『白樺』が創刊され、全人間的な自我を主張します。白樺派には個性豊かな人々が集まり、岸田劉生・高村光太郎・梅原龍三郎らの美術家も集まります。武者小路は理想郷(ユートピア)をつくろうと計画を立て、大正7年(1918)に「新しき村」の建設を始めます。

 同年には、童話雑誌『赤い鳥』が鈴木三重吉によって創刊。日本初の子どものための文学運動が始まります。「かなりあ」「あわて床屋」など子どものために新しい童話や童謡が生まれました。

 野球は明治時代から始まりますが、大正4年から夏の全国中等学校野球大会が始まり、春の選抜野球は大正13年から始まります。

 『もう一度読む山川日本史』を開くと、「1912(大正元)年労資協調的な労働者の組織として鈴木文治を中心に発足した友愛会は、大戦後、会員の数を増すとともに急速に急進化し、1921(大正10)年には日本労働総同盟と改称して、労働争議や労働組合の組織化を指導した。1920(大正9)年には日本で最初のメーデーもおこなわれた。農村でも小作争議がしだいに増加し、1922(大正11)年には日本農民組合が結成された。…被差別部落の人々がみずから行動をおこして、社会的差別からの解放を求める部落解放運動もさかんになり、1922(大正11)年にはその全国組織である全国水平社が創立され、その後、1955(昭和30)年の部落解放同盟に発展した」など、第一次世界大戦中のロシア革命(1917年)や米騒動(1918年)に刺激され、労働運動や社会運動も活発になった様子が紹介されています。

 永沢道雄氏は前掲書『大正時代』の「あとがき」で、昭和20年代に母が語った「(大正時代には―引用者注)何でもあったのよ」という言葉を思い出しながら、「昭和の敗戦後にアメリカのデモクラシー、カルチャーを押しつけられた時、他国の人々が感嘆するほどに柔軟に、すばやくそれを受け入れて我がものとした。…私たちの大正時代の発明を思いだせばよかったのです」と語っています。

 確かに、戦後民主主義の原点を大正時代に見出そうとする見解にも説得力があるように思えますが、皆さんはどう思われますか。

女性こそ岸和田の発展を支えてきた影の主人公

 今回は、新しい時代を切り開くために活躍してきた女性たちを中心に見てきました。小林登美枝氏は著書『陽の輝き―平塚らいてう・その戦後』の「おわりに」の中で「最晩年のあるとき、らいてうがふと『わたしは早く生まれすぎたようね』と、呟くようにいったことがある」と書いています。

 その真意はわかりませんが、らいてうが後年に生まれ活躍したとしても、これほど歴史に刻まれたでしょうか。先駆者・先覚者はその時代や周囲に受け入れられずイバラの道を歩むことが常です。しかし、だからこそ光り輝き、後世に道を切り拓きます。

 岸和田をはじめ泉州地域の経済発展は、紡績・織物など綿工業によってリードされてきました。その意味で「寺田家」が果たした役割は絶大ですが、その生産を中心に担ってきたのは「女工」と呼ばれた人たちでした。彼女たちは社会制度や労働運動の分野でも勇気をもって新しい時代を創り出します。

 時代を遡れば、江戸時代から明治初期も、糸紡ぎや木綿織りに従事し、その後の繊維産業の礎を築いてきたのは主に女性たちです。その意味では、女性たちこそ「岸和田の発展を支え続けてきた影の主人公」と言えるのではないでしょうか。

洋装は、自覚した女性のたたかい? 「月」から「太陽」へ

「大正時代の大阪の郊外のことですから、実際に洋服を着ている人などほとんどいません。子供たちの通学服も、たいていは着物です」(『糸とはさみと大阪と』)

「当時は女性の仕事といえば男性のリードでやらされる仕事しかなく、女性が仕事を切り盛りするなんてことはほとんどなかった時代なのでした。男性社会ですから、女性が経営できるような職種も少なかったのです」(『やんちゃくれ』)

 泉南高等女学校の場合、洋服が制服に定められたのは昭和2年(1927)、その形式は決められなかったようです。(『きしわだの女たち』参照)

 『日本の歴史6』(ほるぷ出版)では、「大多数の女性は、工場で働く女工さんも、都会の職場で働く職業婦人もふくめて、和服を着ているのがふつう」であり、「この状況を大きくかえたのが大正デモクラシーの時代」であったことや、女性の社会的進出が広がるに伴って活動に便利な簡素なスタイルの洋服を着用する者が多くなってきたことを紹介しています。

 しかし、昭和の時代になっても、女性の洋装に対する世間の目は冷たく、「洋装婦人の増加は『流行』に乗ってというよりも、むしろ世間の冷たい目とたたかいながら進められてきた」「自覚した婦人が勇気をふるって洋服を着用し、女性の“衣生活”を変革する道を開いた」ことも指摘しています。

 小篠綾子さんは、このような厳しい時代に、女性の洋服という新しいジャンルに挑戦し新たな分野を切り開きました。それも、父が亡くなり夫が戦死してからは「一家の大黒柱」として、「他によって生き、他の光によって輝く月」ではなく、まさに自らの力で光輝き、3人の娘も「自らの力で光り輝く」世界的なファッションデザイナーに育てました。その意味で、小篠さんは「太陽」として生き抜いた数少ない女性の一人と言えるでしょう。

小篠さんをモデルとした小原さんの家族が、「カーネーション」の中でどのように描かれるのか、楽しみですね。