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岸和田城

記事ID:[[open_page_id]] 更新日:2011年6月9日掲載

 岸和田城は、市のシンボル的な存在。春には城周辺に桜が咲き誇り多くの人々でにぎわいます。

現在の天守閣は市立図書館として建設。八陣の庭は、重森三鈴氏の作

 現在の天守閣は3層(江戸期の城は5層)の鉄筋コンクリート造り。文政10年(1827)落雷により焼失して以来127年ぶり、昭和29年に市立図書館として建設されました。そして、現在の図書館本館がオープン(昭和50年)するまでの約20年間、多くの方々に利用されてきました。まさに、図書館としてもなじみの深い建造物です。

 天守閣の前に広がる石庭(八陣の庭)は、庭園設計の第一人者、重森三鈴(しげもり みれい)氏によって設計監督されたものです。重森氏は、1936年より全国の庭園を実測調査し、庭園研究者の必読書と言われる『日本庭園史図鑑』(全26巻)等を著わしました。また、作庭と鑑賞を比較的平易に綴った『庭』(光風社出版 重森三鈴と長男完途の共著)もあります。

岸和田城は、いつ、誰によって築かれた?

詳しいことはわからない?

 市教育委員会編集のパンフレット『岸和田城いま、むかし』では、「詳しいことは不明ですが、戦国時代16世紀中葉には松浦氏が居城としました。羽柴秀吉は天下統一の過程で紀州の根来寺などの勢力の押さえとして中村一氏を城主とし、根来寺壊滅後は秀吉の叔父にあたる小出秀政を城主とし…天守閣は秀政によって築かれ、慶長2年(1597)に完成しました。」と書かれています。

 「あれっ?」と思われた方もいるでしょう。実は、以前に発行された同文書には「建武元年(1334)楠正成の一族和田氏が、当時『岸』と呼ばれていたこの地に城を築き、根拠地としていたことから『岸の和田氏』と呼ばれ、『岸和田』の地名の起こりになったと言われています。」と書かれています。野田町には「和田氏居城伝説の地」と刻んだ石柱(大正10年大阪府が建立)もあります。

 これまで岸和田市が発行してきた文書でもこの説を採用し続け、図書館にある諸資料の大半も同様の立場で書かれていました。

築かれた時期は16世紀? 岸和田氏の一族がいた?

 従来の説を歴史検証した論文(山中吾朗筆)は、『戦乱の中の岸和田城―石山合戦から大坂の陣まで―』(編集・発行 岸和田市立郷土資料館 平成16年発行)に掲載されています。同論文では、「和田高家が和泉国の支配に関係していたことや、南北朝時代に岸和田城が存在したことを示す同時代史料は見つかっていない。」とし、「岸和田城が築かれた時期は、永禄元年をさほど遡らない時期、16世紀前期~中期頃と考えられる。」としています。

 また、故出口神暁氏が岸和田市農協組合誌に連載した『名所古跡を訪ねて』の中で、「岸の和田氏」の伝説について「今ではこの通説も信用が置けなくなってきた。」(昭和45年掲載)と指摘し、古城跡についても「南北朝の抗争の激しいこの時期には、和泉の住人として岸和田治氏、同助氏・同快智・定智などという名前が和田文書などにしるされているので、岸和田の地名とを考え合わせると、この岸和田城址は、これら一族の居住していた城であろうか。」(昭和47年掲載)と書いています。

 そして、新しいパンフレットには、本丸の石垣の中から百数十基の墓石が発見され、それらの「年号は永正・天文・永禄など16世紀前期~中期のものが多く、本丸石垣が築かれた年代が永禄年間(1560年頃)以後であることがわかります。」など、新たに判明した事実も記述されています。岸和田城に関する新旧のパンフレットを読み比べるだけでも面白いですよ。

岸和田藩の歴史を知るには?

 岸和田藩の歴史については『岸和田古城から城下町へ』(大澤研一、仁木宏編 和泉書院)、中井保著の『岸和田城物語』(泉州情報社)、『五万三千石岸和田藩記』(近畿公論社)などの書物があります。

 写真や資料も豊富で見やすいのは、最近市教育委員会が発行した『岸和田城と岡部家』、平成7年に岸和田市立郷土資料館が発行した『岸和田藩の歴史』。小出秀政以降の歴代藩主が紹介されています。また、前掲の『戦乱の中の岸和田城』でも大坂夏の陣までの時期がまとめられています。

岡部宣勝入城以後、明治維新まで代々岡部家が藩主に

 岸和田市民にとってなじみ深いのは、明治維新になるまで13代も藩主を勤めた岡部氏でしょう。

 寛永17年(1640)、摂津高槻から岡部宣勝(のぶかつ)が岸和田藩6万石の藩主として入城。城郭整備にかかり、津田川堤も築きました。また、神社仏閣の造営修理も行い、母洞仙院(家康准妹)の位牌所として梅渓寺(南町)を建立。別邸として居住した現在の泉光寺(門前町)は、宣勝の死後、岡部家歴代の墓所になり数多くの遺品が伝えられています。(市立郷土資料館が平成17年に発行した『泉光寺と岸和田藩主岡部家』参照)

 2代目行隆(ゆきたか)に相続する際、弟高成に5000石、豊明に2000石を分知し、これ以後岸和田藩は53000石になりました。

 3代目長泰(ながやす)は、元禄16年(1703)に伏見より稲荷社を三の丸神社に勧請し、その頃にだんじり祭が始まったと言われています。

 9代目長慎(ながちか)は、藩の財政再建や教育振興に取り組むなど名君の誉れが高かったようです。隠居後も「重訂本草綱目啓蒙」の刊行、藩学講習館の創設など文教政策に尽力しました。

 藩学講習館(現在の中央保育所付近にあった)の創設に当っては、京都の蘭医新宮涼庭の推挙によって著名な儒学者である相馬九方を招いて藩の指導に当らせました。

幕末・維新期の岸和田も面白い

 2010年放映のNHKの大河ドラマ「竜馬伝」などで、幕末・維新期に興味のある方も多いことでしょう。列強による開国への働きかけが強まる中、鎖国体制も揺らぎ始めます。

洋学者への弾圧事件「蛮社の獄」で、岸和田藩医の蘭学者・小関三英が自刃

 前野良沢、杉田玄白などの努力が『解体新書』として実って以来、医学や語学、地理学、天文学などの分野で洋学を志す者も増え、諸外国の動向も少しずつ伝わるようになってきました。

 しかし、シーボルト事件を契機に洋学者に厳しい目が向けられるようになり、渡辺崋山や高野長英ら洋学者が、鎖国政策など幕府の政治を批判したとして投獄される事件が起こります。小関三英は仙台藩の医学館で蘭医学を教授した経歴もあり、天保3年(1832)に岸和田藩の藩医になります。また、崋山の依頼に応じ蘭書の翻訳もしていました。天保10年(1839)に蛮社の獄の際、いずれ司直の手が及ぶと思い、自刃しました。

 三英の生涯は『小関三英』(半谷二郎著 旺史社)、『小関三英伝』(杉本つとむ編著 敬文堂出版部)などにまとめられています。また、『江戸のナポレオン伝説』(岩下哲典著 中公新書)は、三英が翻訳したナポレオン伝の歴史的意義も論及しています。

吉田松陰が岸和田に訪れ、相馬九方と熱い論議を交わした

 幕末・維新の志士を数多く輩出した思想家、吉田松陰は儒者森田節斉と共に嘉永6年(1853)2月23日に岸和田藩を訪れています。藩学講習館で教官を務めていた相馬九方に会うためです。その日3人は、講習館の一室で国内外の情勢、将来の国防策、詩文談など夜を徹して熱く語り合ったそうです。当時、九方は53歳。熱弁をふるう若き松陰をどのように思ったか、興味深いですね。

 相馬九方は、岸和田藩からの再三の要請で、嘉永4年(1851)に岸和田藩に来ますが、元藩主長慎より「人を知らざるを憂う」(これまで貴方のような素晴らしい人物を知らなかったことが残念でならない)と認めた書を下されたそうです。

 また、九方は大塩平八郎(陽明学者 大阪天満の与力)らとも交友関係があり、大塩平八郎の乱(1837年)の際に江戸幕府から嫌疑を受けたこともあります。また、「岸和田藩騒動」にも巻き込まれ、一時投獄されています。

 相馬九方については、孫に当たる相馬フミさんの論考『相馬九方と岸和田騒動』(大阪春秋第5号)、や『渦潮の譜―岸和田藩儒・相馬九方と幕末の学者群像』(朱鷺書房)、『歴史読本』(平成15年11月号)所収の「岸和田騒動」(山中吾朗著)にも詳しく書かれています。

最後の藩主が就任したのは明治元年

 興味深いのは、最後の藩主の相続をめぐるお家騒動。幕末の世情動乱の中で、12代藩主長寛(ながひろ)の家督相続をめぐって、勤皇・佐幕の政権争いも絡み「岸和田藩騒動」に発展します。結局、明治元年(1868)になって、最後の藩主となる長職(ながもと)が相続しますが、翌年に版籍奉還し長職は岸和田藩知事に。明治4年には廃藩置県によって岸和田県になり知事も免ぜられて上京します。

 その後、学問を志していくつもの私塾の門を叩き、やがてアメリカ、イギリスに留学。イエール大学を経て外交官に、そして貴族院議員、東京府知事、司法大臣、枢密顧問官を歴任するという稀有な人生をおくりました。

 大名から知事、書生、外交官、閣位、枢府にと、明治・大正を駆け抜けた最後の藩主の物語は、『評伝 岡部長職』(小川原正道著 慶應義塾大学出版会)として2006年に発行されました。誕生間もない明治新政府の状況や版籍奉還、廃藩置県の様子もわかり、興味深く読めます。

 また、長職の長男、長景(ながかげ)氏は、東京帝国大学卒業後米国・英国の大使館勤務や貴族院議員、東条英機内閣の文部大臣等を歴任。戦後は東京国立近代美術館の初代館長に就任するなど、文化・芸術振興に尽力しました。そして、岸和田城本丸・二の丸の敷地を市に寄付。天守閣復興にも支援・協力し、岸和田市で初めての名誉市民号を贈られました。それらは、『岡部長職・長景二代』(岸和田市立郷土資料館発行)や『岡部長景日記』(尚友倶楽部編)が参考になります。