岸和田市市制施行100周年記念誌10-11ページ
岸和田のいまむかし
わがまちヒストリー10-11ページ
岸和田を巡る武将たちの攻防
南北朝争乱の軍忠状に見られる 岸和田氏の活躍の記録
14世紀、朝廷が南朝と北朝に分かれて対立し、半世紀にわたって繰り広げられた南北朝争乱。その初期の戦いの中に、「岸和田」という名の一族の存在がありました。岸和田治氏、定智、快智という岸和田地域を支配していた一族で、楠木正成の指揮下で戦った湊川の戦いなど各地の合戦で活躍した記録が、軍忠状という戦場でのできごとや自らの手柄を報告した古文書に残されています。
岸和田軍忠状は計6通が現存しており、「岸和田」の名が確認できる最古の歴史資料として大
変貴重なものです。岸和田市内でのできごととしては、治氏が八木城に籠城して幕府軍と戦っていたことが記されています。
三好一族が登場する久米田池周辺の戦い
時は戦国時代。畿内の大半をおさえ室町幕府の実権を握り、天下人の目前まで迫っていた三好長慶、そして三好実休、安宅冬康、十河一存の三好4兄弟。しかしその絶頂期は、長くは続きませんでした。
永禄4年(1561)4月、岸和田城の城主だった十河一存が急死します。このことで和泉の支配がゆるみ、敵対していた河内の畠山高政、近江の六角義賢らが挙兵。
三好長慶は三好実休らを援軍として岸和田城に向かわせました。しかし、岸和田城はすでに畠山軍に取り囲まれていたため、実休は久米田池そばの貝吹山古墳に本陣を置きます。数カ月にわたり周辺で戦いが繰り広げられ、永禄5年(1562)の3月に起きたのが、決着となる「久米田の戦い」でした。攻防の末、手薄になった実休軍の本陣を畠山軍が攻め、実休は戦死。総崩れとなった実休軍は堺へ撤退し、そのまま一族の出身地である阿波へ帰国します。のちに三好家は衰退し、信長・秀吉の時代を迎えます。この岸和田での合戦はその後の日本の歴史に大きく関わるできごとだったのかもしれません。
古墳を陣に三好実休が奮戦!
春木川を背に戦う畠山軍に対し、前線へ兵を送り続ける実休。
しかし、攻撃部隊と本陣との間に距離が空き、本陣はわずか100騎の馬廻衆と実休を残すのみに。根来衆の奇襲を受け、馬廻衆は全滅し、実休も討ち取られました。
岸和田合戦の伝説を描く「蛸地蔵縁起絵巻」
岸和田城が雑賀・根来衆に攻め入られた時、大蛸に乗った法師と数千の蛸が、すさまじい勢いで敵を倒し、城を救ったという伝承があります。数日後、その法師は堀から見つかった傷だらけの地蔵の化身だということがわかり「蛸地蔵」として岸和田で大切に祭られてきました。
岸和田合戦で火蓋を切った羽柴秀吉の「紀州攻め」
天正5年(1577)、織田信長による紀州雑賀攻めを皮切りに、本格的な紀州攻めが始まります。岸和田城は対紀州の要所にあり、信長は羽柴秀吉の家臣・中村一氏を岸和田城の城代として置き、雑賀・根来の兵と対峙していました。本能寺の変で信長が倒れ、紀州攻めを引き継いだ秀吉は、天正11年(1583)に一氏を岸和田城主に格上げし、改めて最前線での和泉防衛を任せます。紀州勢との攻防は徐々に激化していき、天正12年(1584)、小牧・長久手の合戦に出陣した秀吉の大坂不在をついて、約3万もの雑賀・根来の大軍が岸和田城への攻撃を開始(岸和田合戦)。城を守るのは地元の武士を集めたわずか8000の兵でしたが、一氏は岸和田城を見事守り切りました。(※兵の数は諸説あり)
翌年、小牧・長久手の合戦の休戦・講和ののち、秀吉の本隊が岸和田城に入城。約10万もの兵で紀伊国への攻撃を開始します。雑賀・根来の城を次々と攻略し、根来寺を制圧。さらに軍を進めた秀吉は、紀州勢が籠城する太田城を水攻めで落とし、紀南の攻略も進め、ついに紀州攻めを成し遂げました。